ヒロマツダ

日プロへのスポット参加を経て、1973年から1976年までは全日本プロレスに時々参戦した。1975年にはオープン選手権および力道山十三回忌追悼興行に参加、国際プロレスのマイティ井上を相手にNWA世界ジュニアの防衛戦を行っている。1978年11月にはプレ日本選手権参加のため新日本プロレスに登場。

上田馬之助、マサ斎藤、サンダー杉山らフリーの日本人レスラー達と結成した狼軍団のリーダーとなり、新日本プロレスの反体制勢力として活躍した。プレ日本では猪木と優勝戦を闘い、翌1979年4月には斎藤とのコンビで北米タッグ王座を獲得した。後にマサ斎藤の誘いで長州力率いる維新軍に加わり、スポット参戦ながら軍団に影響力を与える。

ローランボック

1981年夏、新日本プロレスへの初参戦(『サマー・ファイト・シリーズ』後半戦への特別参加)が実現。血栓症の治療中は一切のトレーニングが行えなかったこともあり、肉体的にもベスト・コンディションではなかったものの、木村健吾や長州力をダブルアーム・スープレックスで短時間で料理し、センセーショナルな日本マット登場を果たした。シリーズ中は猪木と対戦することはなかったが、最終戦の猪木対マスクド・スーパースター戦において、試合前にリング上で猪木との再戦をアピール。

その際、ボックの握手を拒否したスーパースターと一触即発の状態になるという一幕も見られた。同年暮れの再来日(『第2回MSGタッグ・リーグ戦』終盤戦への特別参加)でもラッシャー木村やタイガー戸口を下し、12月8日の蔵前国技館大会ではスタン・ハンセンとタッグを組んで猪木&藤波辰巳から勝利を収めている。

バグジー・マグロー

1975年の下期よりバグジー・マグロー(Bugsy McGraw)のリングネームでニューヨークのWWWF(現・WWE)に登場。キャプテン・ルー・アルバーノをマネージャーに、同年9月6日にMSGでブルーノ・サンマルチノとも対戦した。WWWFには中堅どころのヒールとして1977年まで参戦し、ゴリラ・モンスーン、ヘイスタック・カルホーン、チーフ・ジェイ・ストロンボーなどのトップスターと対戦。ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、アーニー・ラッド、スーパースター・ビリー・グラハムら大物ヒールのパートナーにも起用された。

ディックスレーター

1980年まではフロリダのCWFを主戦場に活動し、ダスティ・ローデスやバリー・ウインダムと南部ヘビー級王座を巡る抗争を展開。同時期、日本ではベビーフェイスとして絶大な人気を得ていたが(後述)、同地区ではイワン・コロフ、ニコライ・ボルコフ、アレックス・スミルノフらロシア人ギミックの反米ユニットとも共闘し、観客のブーイングを浴びた。また、ミスター・サイトーともタッグを組み、1980年7月に行われたUSタッグ王座争奪トーナメントに出場したことがある。

フロリダを離れるとテキサス州サンアントニオのSCW(Southwest Championship Wrestling)に進出。1981年2月に交通事故に遭い、平衝感覚を失う後遺症が出たためしばらく欠場するも、カムバック後の8月にマニー・フェルナンデスからサウスウエスト・ヘビー級王座を奪取。

一回目のIWGPリーグ

「IWGP決勝リーグ戦」の決勝戦「アントニオ猪木 VS ハルク・ホーガン」は、1983年6月2日に東京の蔵前国技館で時間無制限1本勝負として行われた。

アントニオ猪木の優勝は既定路線かと思われたがハルク・ホーガンは予想以上に強く、場外乱闘の際に鉄柱の正面に立ったアントニオ猪木に向けて、背後からハルク・ホーガンの必殺技アックスボンバーが炸裂すると、アントニオ猪木は額を鉄柱にまともに打ち付けてしまい、足腰が立たない状態に追い込まれた。

なんとかエプロンに上がった処へ、とどめのアックスボンバーをロープ越しに再び食らうと、場外へ飛ばされ、うずくまったまま動かなくなった。セコンド陣が介抱するがリングに戻る気配は無く、うずくまったままで様子がおかしい。セコンド陣の手によって強引にリング上に戻されたアントニオ猪木の表情をテレビカメラが捉え、当時全日本プロレスと共に対立していた日本テレビでもニュース報道されるなど、ありのまま全国に放送されたほか、新聞にも「試合中のアクシデント」として報道された。

フロイドパターソン

下半身のバネを効かせた、ガゼルパンチと呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『はじめの一歩』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。

ヘビー級としては小柄だったが、ピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年にインゲマル・ヨハンソンを左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。

21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録はマイク・タイソンに破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じカス・ダマトである。

サベージの来歴

ランディサベージがプロレスラーになる以前は野球選手で、1970年代前半までセントルイス・カージナルス、シンシナティ・レッズ、シカゴ・ホワイトソックスのマイナーリーグでキャッチャーとしてプレイしていた。1973年11月、野球のオフシーズンにプロレスラーとしてデビューを果たす。その後、肩の故障で野球を引退してプロレスに専念。

覆面レスラーのザ・スパイダーや本名のランディ・ポッフォの名義でジョージアやフロリダ、ミッドアトランティックなどNWAの傘下テリトリーを転戦してキャリアを積み、ミッドアトランティックではドクター・フジナミこと海外修行時代の藤波辰巳とも対戦しているのだ。父アンジェロ・ポッフォが主戦場としていたデトロイト地区ではザ・シークのUSヘビー級王座に挑戦した。

行ったり来たり

今はプロレス団体も沢山あり、インディーの方が元気だったりもする。

新日と全日しか無かった頃はそれで面白かった。個性ある名選手たちが沢山そろっていたからだ。

参加外国人選手も豪華だった。

今は選手たちも色々な団体を行ったり来たりしている。

そのせいか新鮮味のあるカードがどんどん無くなってしまった。

ジミースヌーカの工夫

ジミースヌーカは、ありふれた技に工夫を加えてオリジナリティに高める事に成功したレスラーだと思う。

スーパーフライ(スーパーフライ・スプラッシュ)基本的にはコーナーポスト最上段から繰り出されるが、試合中盤にスワンダイブ式で放たれることもあった。スヌーカの代名詞ともいえる技である。

ダイビング・ヘッドバット上。記のスーパーフライはダイビング・ヘッドバットとして繰り出されることもあった。フォーム的にはダイナマイト・キッドのそれに近い。

シュミット式バックブリーカースーパーフライを放つ際の、繋ぎ技として使用。これで寝かせておいて、トップロープに上る訳だ。

フライング・クロス・ボディ、この技も「飛獣」の異名の通り、豪快かつ美しいフォームから繰り出した。バックハンド・チョップミッドアトランティック地区では、同じくバックハンド・チョップを得意技としていたリッキー・スティムボートやリック・フレアーとのチョップの応酬も見られた。

ジョバーの重要性

引き立て役がうまくないと、その試合はつまらない。

ジョバーが非常に重要な訳なのだ。

団体が売り出そうとする新人や若手レスラー、新参の大物選手や外国人レスラーに負ける役目を持つ。前者の場合は、何度か勝利した上で「乗り越えるべき壁」としての重みを演出した上で敗北することが多い。これにより、売出対象に最初の苦難を乗り越えたという経歴を付与することが出来る。後者の場合は、相手の圧倒的な実力を演出するために数分で倒されることが大半である。この他、目的に応じて様々な負け方をする。

名ジョバーである事は、そのレスラーの商品価値でもある。