方言が進化すると

方言同士が時を経てそれぞれ異なる方向に変化し、やがては意思の疎通ができなくなるが、このような過程のある段階で各々の方言は別言語だと看做されるようになる。同じ語族に属する言語とは、理論上、そもそも同じ言語(祖語)の方言がさらに変化して別言語に枝分かれしたものである。

一般的な感覚ではしばしば「お互いに意思の疎通が可能」であることが方言か別言語かの基準とされるが、言語学的には「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」と「同一言語の中の方言」を区別する明確な基準はなく、言語と方言の違いは曖昧である。中には、隣接する地域同士ではそれぞれ意思疎通が可能でも、数地域隔たると全く意思疎通ができなくなる場合もある。国境の有無や、友好国同士か敵対国同士かというような政治的・歴史的な条件、正書法の有無・差異などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、例外は多々存在する。そのため、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問への明確な答も存在しない。

本来のルチャリブレ

日本では、ミル・マスカラスの影響もあって空中殺法のイメージが強いが、実際は投げ技(巻き投げやティヘラと呼ばれるヘッドシザーズ・ホイップなど)やジャベ(鍵の意)と呼ばれる関節技、ストレッチ技も多用される。ロープワークをはじめとする動き(ムーブ)を駆使するのもルチャの特徴で、突進してくる相手をジャンプして飛び越えたり、相手の股の間をくぐり抜けるなどの軽快で機敏な動きを見せる。

原因・理由は不明であるが、世界の一般のプロレスリングとは鏡写しの動きを取る。具体的には、通常ヘッドロックは左脇に抱えるのが絶対的なルール(マナー)であるが、ルチャにおいては必ず右脇に抱える。ルチャドールが海外で試合をするとき、逆に海外の選手がルチャの試合に出るときはそれぞれに合わせる。

日本の小柄なレスラーや女子レスラーは、メキシコへルチャリブレ留学に行くことが多く、新日本プロレスのジュニアヘビー級においてメキシコ帰りのタイガーマスクや藤波辰爾がルチャの技術を披露し人気を集めた。

ロビッチ

1950年代初頭から、社会主義ユーゴスラビアにおけるポップ、ロックの先駆者として、ロビッチはユーゴスラビア国内外でほぼ半世紀にわたって成功したアーティストとなった。初期にはユーゴスラビア国内のみの歌手であったロビッチの作品は、やがて他のヨーロッパ諸国、そしてその他の各国で買われるようになった。

ロビッチの初の国際的なヒット曲となった1959年の「Morgen」にちなんで、彼は「ミスター・モルゲン」(Mister Morgen)と愛称されるようになった。 この曲はロビッチとドイツのベルト・ケンプフェルトの初の共作であった。この作品がドイツで成功すると、この曲のドイツ語版がアメリカ合衆国のヒットチャートで13位となり、アルバムはゴールド・アルバムとなった。レズリー・アガムス(Leslie Uggams)が歌った英語版の曲「One More Sunrise」は同じアメリカ合衆国のチャートで98位となった。この曲は他にも多くのアーティストによって演じられた。ロビッチはドイツのポリドール・レコードで非常に活発に活動し、何百万枚ものシングル、アルバムを売り続けた。ロビッチはベルト・ケンプフェルトやフレディ・クイン(Freddy Quinn)、ディーン・マーティンなど、多くの有名アーティストと共演した。

モンゴリーフラッグ

フラッグの最も有名なポスターは第一次世界大戦時にアメリカ陸軍への応募を促すために1917年に描かれたものである。見る者を指差すアンクル・サムが、「アメリカ陸軍に君が必要だ」(I Want YOU for U.S. Army)というキャプションと共に描かれている。

このデザインは同様のポーズをした『キッチナーの募兵ポスター』から着想されたものであった。このポスターは第一次世界大戦の間に400万枚以上が印刷され、第二次世界大戦でも再び使用された。このアンクル・サムにはフラッグ自身の顔が(加齢し白い山羊鬚を加えて)使われている。これは単にモデルを用意する手間を省くためであったとフラッグが後に語っている。

広瀬淡窓

文化2年(1805年)には長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へ発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は延べ4000人を超える日本最大級の私塾となった。

淡窓は嘉永6年(1853年)から 晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。