レーニンと兄

レーニンは兄の受難に対する見解をほとんど史料に残していない。しかしカザン大学時代にカール・マルクスの著作に触れ、彼の唱える理想に傾倒した事は、レーニンの反政府思想の大きな原動力となった。レーニンはカザン大学でも勢いを得ていた学生運動に参加して1887年12月に暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けた。ウリヤノフ兄弟は帝国政府から「テロリストの兄弟」として危険視され、常に秘密警察から監視される日々を送る事になった。

レーニンは監視の中で暴動を控えて「資本論」などカール・マルクスの著作を読み耽り、思想研究に没頭して理論面での活動を志し始めた。

キティホーク

キティホークは1956年1月27日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工し、1960年5月27日にニール・H・マッケルロイによって進水、1961年4月29日にフィラデルフィア海軍造船所で艦長ウィリアム・F・ブリングル大佐の指揮下就役した。

就役当時、ソ連は空母建造に乗り出していたためアメリカ政府は空母の運用を多角的に検証しており、就役間もないキティホークや同型艦アメリカに当時CIAが運用していたU-2A高高度偵察機の空母運用を前提とした実験を行いアメリカ政府の新たな空母戦略の尖兵となった。

アーリング・カッゲ

1989年までに、カッゲは二度のヨットによる大西洋横断航海を行った。ホーン岬を周りヨーロッパに戻ると、1989年にオスロ大学で法学の学位を受け取った。

1990年、カッゲとBørge Ouslandは、世界で初めて動物や動力のサポートなしで北極点に到達した。この探検は、1990年3月8日にエルズミア島を出発し、北極点へ58日後の1990年5月4日に到達した。彼らは、約800kmの道程をスキーで荷ゾリを曳いて旅した。出発地点での荷物とソリの重さは125kgだった。

それから三年と経たず、1992-93年にかけて、カッゲは世界で初めて単独かつ動物や動力のサポートなし(この時は歩行)での南極点探検を達成した。このときは、1992年11月18日にBerkner島を出発し1340 kmの道のりを51日で踏破した。南極点には1993年1月8日に到達した。カッゲはラジオも持たず、探検中一度も外部と連絡を取らなかった。彼は、詩を吟唱し、ヘッドフォンで音楽(主にジミ・ヘンドリクス)を聴きながら着実に歩を進めた。この達成はタイムマガジンの表紙に取り上げられた。

不確定性原理

不確定性原理(ふかくていせいげんり、独: Unschärferelation 英: Uncertainty principle)とは、量子力学では、量子(たとえば電子)について、その位置と運動量を、同時に、かつ、いくらでも高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がる、という関係(不確定性関係)を量子自身が(測定可能かどうか、ということではなく)持っている、という原理である。

その後の量子力学の発展により、現代ではより原理的な量子の性質から導出されるものとなっている。

当初これを考えたハイゼンベルクが、測定の問題として考えたことから、しばしば量子力学における観察者効果などと混同されることもある。また、当初のハイゼンベルクが示した(「ハイゼンベルクの不確定性原理」として、不確定性関係とは区別することがある)「測定の限界」については、小澤らにより越えられることが示唆され、確認されている。

国会

日本国憲法は、国会を「国権の最高機関」と定める(41条)。ここで、「最高機関」の意味が問題となる。この点、憲法学上は、政治的美称説が通説的見解と目されている。政治的美称説とは、国会が諸々の国家機関の中で主権者たる国民に次いで高い地位にあり、国民に代わって、国政全般にわたり、強い発言力をもつべきであることから、「最高機関」とは、国民を代表し、国政の中心に位置する重要な機関であるという点に着目して国会に付した政治的美称であるとする見解である。

この見解は、憲法が権力分立制を採用していること、内閣による衆議院解散、違憲立法審査権の存在、司法権の独立などから、「最高機関」に特段の法的意味を認めない。この点について、より積極的な意味づけをなす見解もある。

東北大学

国内で3番目の帝国大学である1907年(明治40年)に創設された東北帝国大学を前身とする大学である。

東北帝国大学創立期の大学の略称は、東京帝国大学のそれが「東大」であったため「北大」であった。後に東北帝国大学から分立した北海道帝国大学は「海大」とされた。ただし、現在では「北大」は北海道大学の略称として用いられることが多く、東北大学の略称は「東北大」が用いられる。

「東北」の名を冠しているが、校舎はすべて仙台市内にある。

バリ島沖海戦

日本軍はジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として、バリ島の攻略を決めた。攻略に当たる陸軍部隊は、第48師団の一部を抽出した今村亦兵衛少佐指揮の支隊(歩兵1個大隊基幹)となった。1942年2月18日、支隊を乗せた輸送船2隻は第八駆逐隊(阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」、「朝潮」、「満潮」に護衛され、マカッサル泊地を出航した。途中で駆逐艦「荒潮」とも合流し、19日0015にバリ島サヌール泊地に進入して上陸を開始した。上陸に対して抵抗はなく、未明には日本軍が飛行場を占領した。

アレンの引退後

バットニュースアレンは引退後の1998年1月にはカナディアン・ロッキーズ(アダム&ジェイ)を帯同して新東京プロレスにも参戦したが、同年に膝を手術して現役を引退。その後はカルガリーでショッピングモールの警備員として働きつつ、再興したスタンピード・レスリングのカラー・コメンテーターを務め、若手選手の指導にも携わったのだと言う。

あまりにも早い死を迎えたのは、そこからたかだか10年弱の話である。

ザ・グレートカブキの逸話

1983年、ジャイアント馬場から帰国命令が出たため、全日本に凱旋帰国。帰国後もカブキのギミックのまま全日本プロレスに登場し、アメリカでの活躍もあって人気を得る。専門誌だけでなく一般誌にもとりあげられ、子供向けの本にまで登場し人気は馬場やジャンボ鶴田に引けを取らなかったものの、リング上の格は2人の後に甘んじ、ギャラの面においてもカブキにとっては決して満足のいく扱いではなかったという。

後にムック本のインタビューで、カブキの凱旋帰国シリーズがTV放映権料を除く興行収益で全日本設立以来初の黒字(馬場が欠場していたのにも関わらず)になったり、一般マスコミの取り上げ方やTV出演依頼が殺到したため、馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬を買ってしまったことや、映画『カランバ』のプロモーション(映画CMを真似て、腕にロープを巻き、ジープで引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)についても、映画配給会社がカブキを名指しして依頼が来たために、出演について直前までもめた事が明かされている。

カロル・シマノフスキ

18世紀のポーランド分割によって19世紀当時はポーランドからロシアに割譲されており現在はウクライナに属するティモシュフカで、シュラフタ(ポーランド貴族)の家に生まれた。

父親のスタニスワフ・シマノフスキはポーランド人の裕福な大地主、母アンナはポーランドにやってきたスウェーデン系の移民で、カロルは3番目の子供であった。両親は音楽を愛し、家は芸術家が集まる一種のサロンのようになっていた。こうした環境からか、彼の4人の兄姉妹はいずれも音楽家、画家、詩人といった芸術の道に進んでいる。カロルは、4歳の時、脚に大怪我を負い一時期は歩けないほどであったため、学校へは行かず家庭内で初等教育を受けた。最初にピアノを教えたのも彼の父親であった。

10歳になると、父スタニスワフの従姉妹マリアの夫にあたるグスタフ・ネイガウス(グスタフ・ノイハウス。息子はゲンリフ・ネイガウス)がエリザベトグラード(現在のキロヴォグラード)で開いていた音楽学校に入学した。